スポーツ推薦からのプロを目指すが挫折、そこからプロチームを支える会社の経営者へ(平地大樹さん)【大人の失敗から学ぼうVol.08】

生徒・先生の声

2022/02/11

さまざまなシーンで活躍する大人たちに、過去の失敗談を伺うこの連載。今回お話してくださったのは、Webコンサルティングを手がける株式会社プラスクラスを経営する平地大樹さん。

同社では、B.LEAGUE所属のプロバスケットボールチーム「千葉ジェッツ」「宇都宮ブレックス」をはじめ、プロ野球やJリーグなど数多くのプロスポーツチームを中心にデジタルマーケティングやコンサルティングを行っています。
多くのチームで観客動員数を飛躍的に伸ばし、ITを使ったスポーツビジネスの最先端を行く企業として注目されている企業です。

そんな平地さんの子どもの頃の夢は、プロバスケットボール選手になること。

しかし、高校時代のある出来事をきっかけに、挫折することになってしまったと言います。その挫折から、今に至るまでのお話を詳しく伺ってみましょう。

平地大樹(ひらち・たいじゅ)さん
1980年生まれ。2011年に株式会社プラスクラスを設立。スポーツ×デジタルマーケティングを実践し、スポーツクラブやメーカー、メディアのコンサルティングに従事。プロチームのクライアントはプロ野球からJリーグ、Bリーグ、マイナースポーツと幅広く90チームに及ぶ。

高校最後の夏、プロ選手へのレールから大きく脱線

―― 平地さんはバスケットボールのプロ選手を目指していたとのことですが、いつから始められたのですか?

小学校3年生に始めました。中学からは中高一貫の私立の学校に入ったのですが、そこに決めた理由は、中3で受験のために中断されることなくバスケットボールがやりたかったから。中高一貫なので、中学生でも高校生と一緒に練習ができるのも魅力でした。
進学校だったので周りは勉強をしていましたが、僕はバスケットボールにのめり込んでいました。中学では1年生からレギュラーで試合に出ていましたね。

―― 高校まではスター選手で、キャプテンも務めていたそうですね。

はい。バスケ部が強い大学からスポーツ推薦の話ももらっていました。もちろんそこに進学するつもりで、その先は実業団に入ってプロ選手になると、自分も周りも思っていたんです。ところが高校3年生の夏、最後の大会を目前にした合宿で、事件が起こりました。同期が1年生をバリカンで坊主頭にしてしまったんです。

―― それが大問題になった、と。

ノリでやってしまったことがいじめ問題のようになってしまい、僕を含め同期は全員退部となりました。

―― それで、大学のスポーツ推薦の話も消えてしまったわけですね。

はい。でも大学でバスケをやりたいという気持ちはあったので、とにかくバスケ部があるところに進学しようと決めました。でも、それまで勉強は最低限しかしておらず、塾にも通っていなかったので、どの大学を受けたらいいのか自分のレベルがわからないんですね。そもそも、推薦でバスケットボール部に入ってプロになるという道が消えてしまったことで、気持ちがなかなか受験勉強に向きませんでした。
将来どうなるんだろう、自分は受験するはずじゃなかったのに、という思いが頭の中でぐるぐる回っていて、勉強にも身が入らない状態でした。結局、いくつかの大学を受験したもののどこにも受からず、浪人することに。

―― 大学進学以外の道は考えなかったのですか?

ファッションに興味があったので、服飾専門の学校に行こうかとも迷いました。でも、もともと大学リーグでバスケットボールがしたいという強い思いがあった中で、服飾のほうに進むのは逃げだなと思い、1年間予備校に通って国立の大学に進みました。

―― 国立大学を選んだ理由は?

親が大学の学費を出してくれることになっていたのですが、勉強するためではなく、バスケをするために大学に行くので、学費の高い大学には行けないなと思ったんです。東大も考えましたが、苦手な科目があったので叶わず、電気通信大学に進学しました。子どもの頃にロボットが好きで、ロボット工学が学べるところもいいなと思ったんです。バスケ部のほうは、東大は当時、8部まであった大学関東リーグの3部リーグだったのですが、電気通信大学は入学時点では7部でした。

―― 浪人中もバスケの練習はやっていたのでしょうか。

はい。地元のクラブチームを3つ4つかけ持ちして練習をしていました。

―― 高校時代に思い描いていたレールから大きく外れてしまったものの、軌道修正のために努力されていたわけですね。

現実を突きつけられ、ストリートバスケの道へ

―― 大学でのバスケ部生活はどうだったのでしょうか。

もともと1部リーグに所属する大学に推薦で入る予定だったので、まったくレベルが違いました。1年生から試合に出て得点王になっても、2位との差は200点くらいあるような状態。自在にプレイできる楽しさはありましたが、満足感は得られませんでした。チームを強くしたいという思いから、2年生の頃からは全体の練習メニューを考えて、選手兼監督のようになっていましたね。先輩たちにもキツくあたっていました。

―― チームの中で浮いてしまい、ぎくしゃくすることはなかったのですか?

嫌がられているだろうなとは思っていました。でも、先輩たちが卒業するときには「ヒドいヤツだったけど、平地のおかげでうまくなったのは間違いない」と後輩たちの前で言ってくれたのはうれしかったです。先輩たちもバスケットが好きでうまくなりたいという気持ちを持っていたので、離れることなくついてきてくれた。結果、4部リーグの上位のほうまで上り詰めることができましたし、チームのメンバーも地元のクラブチームに行けばエース級の実力になっていました。そういう信頼できる仲間と出会えた、いい部活生活だったと思います。

―― 充実した4年間を送れたわけですね。卒業後はどうされたのでしょうか。

上位リーグで活躍できたわけではなかったので、実業団は厳しいと思っていました。そこへ、アメリカにいる友人がアメリカでプロに挑戦する道を用意してくれたんです。NBAのオフ期間中に行われる「サマープロリーグ」に挑戦するために行われるキャンプで、世界各国からNBAを目指す選手たちが集まってきていました。

―― いきなり海外とはすごいですね。

しかし、そこで現実を突きつけられたんです。生活がかかっている選手、人生をかけて本気で取り組んできた選手が各国から集まる中で、自分がやってきたバスケは遊びでしかなかったように感じました。自分には覚悟が足りないということを思い知らされたんです。1カ月間のキャンプで、契約がとれるのは限られた人数。自分には声がかからず、3カ月で帰国することになりました。

―― ただ、それでもバスケをやめようとは思わなかったんですよね。帰国してからの道筋は立っていたんですか?

キャンプ地のロサンゼルスにはベニスビーチというストリートバスケの聖地があり、そこでストリートバスケの面白さを知りました。そこで、帰国してからはストリートバスケの魅力を発信するアパレル企業に就職しました。その後、ストリートバスケのプロリーグができて、そのチームで選手と営業の両方をやる形で所属することになりました。

―― 形は3on3に変わりましたが、プロ選手としての道が拓けたと。

ところが、そこではなかなか出場機会がもらえなかったんです。自分のほうがうまいのに、試合に出させてもらえない。上の人に取り入るようなことも苦手で、活躍できないままリーグ運営自体も厳しくなり、会社から選手をやめて営業一本でやってくれと通告されてしまいました。2シーズンいましたが、選手としてのプライドがズタズタになり、そこで僕のバスケット人生は終わってしまいました。今思えば、選手としての努力や魅力が足りなかったのだろうと思いますが、当時は「どうしてやめなきゃいけないんだ」という気持ちを抱えて、引退することになってしまったんです。

―― 中高時代までスター選手として活躍してきた平地さんにとって、大きな挫折となってしまったわけですね。

ドン底会社員生活からアスリート魂で這い上がる

―― バスケを引退した後はどんな生活をされたのでしょうか。

引退後は挫折感を引きずったまま、人材紹介会社に拾ってもらい、わけもわからずにセールスの仕事をしていました。今までの人生とはまったく違う毎日が始まり、テレアポで100件電話をして、ガチャ切りされ続けるという経験も……。「誰にも必要とされていない」という気持ちがどんどん大きくなり、それでも当時は結婚して子どももいたので、何とか稼がなくてはと必死でした。精神的にはかなり弱ってしまい、会社に行くとお腹が痛くなりトイレにこもるという状態にまでなっていましたね。そこへリーマン・ショックが起こり、1年も満たずにリストラされてしまったんです。

―― まさにドン底ですね……。あの頃は転職も大変だったと思いますが。

経験もろくにない僕を雇ってくれるところはなかなか見つからず、人材紹介会社の方が親身になってくれて、ようやく入れたのが技術系のITベンチャーでした。そこでイチからITを勉強して、目に見える成果が出せるようになったんです。すると給料も上がり、ようやく「頑張った分だけ対価がもらえる」という体験ができ、夢中になっていきました。

―― バスケ選手としてはなかなか報われなかったけれど、ここでようやく明るい兆しが見えてきたと。

スイッチが入るとアスリートは強いですよね。仕事をどんどんこなしながらスキルを身につけていき、成果を上げていく。4年弱働かせてもらった中で、ITのスキルだけでなく、部長など管理職も経験させていただいて、ビジネスに必要な力がどんどん伸びていくのを実感できました。この経験を活かして、プロスポーツの世界をもっと良くしていきたいという思いが強くなり、今の会社を設立することを決意したんです。

―― 今では全国のプロチームから依頼が殺到する会社の経営者。10代の頃には思いも寄らなかった方向に人生が動いたわけですね。ご自身の経験から、今、何かを目指しつつも一歩が踏み出せなかったり、うまくいかず挫折感を抱いていたりする10代に、アドバイスはありますか?

自分も高3以降、うまくいかずに「この先どうなるんだろう」と不安に駆られることが多々ありました。でも、将来や未来を苦慮することって、無駄なんですよね。数年前まで世の中がコロナ禍でこうなるとは誰も予測していなかったわけじゃないですか。わからない未来のことで悩むのって無駄なんです。やるべきことは、今目の前にあることを一生懸命にやるだけ。例えば思ったような進学先に進めなかったとしても、そこでどれだけ一生懸命できるかが大事なんです。

僕も、ITベンチャーなどで目の前の仕事に懸命に取り組んできて、そのとき一緒に働いていた仲間が、今の会社のメンバーになっていたりします。不満や不安を持って今をおろそかにするのではなく、今あるところでスキルと人脈、仲間をつくることが、結局は一番生産性が高いのだと学びました。

―― 今、部活を頑張っている子たちにも何かメッセージをお願いします。

部活の中でも、エース級の選手もいれば、好きだけどレギュラーにはなれない子もいます。どういう立場にあっても、チームの中で自分にはどんな役割があるのかを考えることが大切です。点をとることが仕事なのか、練習内容や相手チームを分析すること、戦略を考えることが仕事なのか。それぞれに役割があるはずなので、部活の中での自分の役割を学んで伸ばすことが、将来に必ず役立つと思います。

―― ありがとうございました。

<取材・文/大西桃子>

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この記事を書いたのは

大西桃子

ライター、編集者。出版社3社の勤務を経て2012年フリーに。月刊誌、夕刊紙、単行本などの編集・執筆を行う。本業の傍ら、低所得世帯の中学生を対象にした無料塾を2014年より運営。