いくつもの挫折を経てたどりついた「不登校もひとつの生き方」(棚園正一さん)【大人の失敗から学ぼうVol.10】

生徒・先生の声

不登校

2023/01/18

『学校へ行けない僕と9人の先生』(双葉社)より

さまざまなシーンで活躍する大人たちに、過去の失敗談をお聞きするこの連載。今回お話を伺ったのは、小学校から中学校までの9年間不登校を経験し、その体験を描いた漫画『学校へ行けない僕と9人の先生』(双葉社)を2015年に出版して話題を呼んだ、漫画家の棚園正一さん。
2021年には続編となる『学校へ行けなかった僕と9人の友だち』(双葉社)、2022年に著名人などのさまざまな不登校経験を漫画で描いた『マンガで読む 学校に行きたくない君へ』(ポプラ社)も出版し、注目を集めています。

棚園さんは、不登校だった当時、そのことを「自分は失敗している」「みんなができる当たり前のことが、自分にはできない」と、ずっとマイナスに感じ続けていたと言います。ですが、前出の作品はいずれも、不登校の経験があったからこそ巡り会えた人や、進むことができた道があったことが窺える内容となっています。

とはいえ、「今は不登校だからこそできることをやろう、学校以外に何かを見つけて前向きに頑張ろうと言われますが、そんなことを考える必要はないと思います」とのこと。棚園さんは今、自身の不登校をどのように考えているのでしょうか。

●お話を伺った人

棚園正一さん
1982年生まれ。13歳の時に漫画家・鳥山明氏と出会い漫画家を目指す。著書に、『学校へ行けない僕と9人の先生』『学校へ行けなかった僕と9人の友だち』(いずれも双葉社)など。NHK「ウワサの保護者会」などメディア出演も多数。全国各所で不登校をテーマとした講演を行っている。

不登校のプレッシャーから解放された鳥山先生との時間

―― 棚園さんは小学校1年生の頃に不登校になったとのことですが、何かきっかけや理由があったのでしょうか。

直接の原因は、小1のときに授業の内容についていけず、担任の先生から叩かれたことでした。ただ、それを9年間引きずっていたわけではなく、一度行けなくなると次は戻ろうと思っても戻りづらくなり、行けない時期が長くなるほど、「行けない理由」が増えてしまうというループに陥ってしまっていました。

以前よりもさらに勉強についていけなくなる、クラスの輪に入れない、仲のいい友達ができないというように、どんどん学校特有のリズムについていけなくなってしまって。何度も行かなきゃと思って挑戦はするんですが、いざ教室に入ってもうまく立ち回れず、すごく疲れてしまって、またすぐに行けなくなってしまう、という繰り返しでした。

―― 学校に行けないことを、ダメなことだと思っていたんですね。

はい。今は不登校については失敗も成功もない、ひとつの道だととらえていますが、当時は失敗だと思っていました。自分はみんなができる当たり前のことができない落ちこぼれだ、と。

―― そんな不登校生活の中で、『ドラゴンボール』などで知られる漫画家の鳥山明さんに出会うんですよね。

不登校支援をしている担当者が、僕が絵を描くことや『ドラゴンボール』が好きなことから、鳥山先生に会わせようとしてくれて、実現しました。そこから鳥山先生との交流が始まり、今も時々やりとりをさせていただいています。

―― その頃から、漫画家になりたいという夢を持っていたんですか?

いえ、当時はただ、好きな絵を描いて過ごしていただけで、漫画家になりたいとまでは思っていませんでした。漫画家への憧れというよりも、鳥山先生と過ごす時間が他のどの大人と過ごす時間とも違って、新鮮だったんです。

先生といるときには不登校の話題は一度も出てこず、近所であった出来事や映画の話など、普通の話をすることができたんです。そうして交流を重ねるうちに、漫画家という仕事もあるんだということを、具体的に考えるようになりました。

―― 他の大人たちと話すときには、息苦しさがあったのでしょうか。

そうですね。それまで過ごしてきたのは、「学校」と「家」の2つの世界。ここでは、先生や親などの大人たちはやはり、僕が不登校だという前提で話をするんですね。たとえば、僕が絵を描いているのを見ると、「上手だね。学校のみんなにも見てもらいたいね」と、学校に行くきっかけにしようとするような。

もちろん僕を心配してくれてのことなのですが、常に「自分は不登校なんだ」ということがつきまとい、普通の話ができない閉塞感がありました。でも、鳥山先生との会話ではそういう話は出てこなかった。それが嬉しかったですね。

『学校へ行けない僕と9人の先生』(双葉社)より

「不登校は小さなこと」と感じられた予備校や大学

―― 義務教育の9年間で不登校を経験した後、どのような進路を選ばれたのでしょうか。

中学卒業後は、アニメの専門学校に入りました。そこには高校卒業後に進学する学生が多く、僕は一番年下。周りを見渡すと、すごく絵のうまい人たちが、さらに腕を磨こうと努力している姿が見えて、自分ももっとうまくなりたいと思うようになりました。その中で、自然に不登校だった自分を忘れていくことができました。

―― 以降、不登校だったことをネガティブにとらえることがなくなったということですか。

ところが、そうはうまくいかず、専門学校に2年通った後に、「普通の高校生活」を体験してみたいと思って定時制高校に入ったんです。でも、その学校はヤンチャなタイプの生徒が多く、なじめませんでした。そこで大検予備校に通うことになりました。

予備校といってもフリースクールのような側面がある場所で、最初は「学校に行けなかった落第生が通う場所」というネガティブなイメージを勝手に持っていました。

―― 再び自己否定的な気持ちになってしまったんですね。

でも、実際に通い始めると、イメージとは違ってみんな明るくてすごく雰囲気が良かったんです。学校に行っていなかったと言っても、帰国子女だったり、普通の高校よりもっとレベルの高い勉強がしたいという目的で通う人がいたり、背景はさまざま。

その中で「不登校というのもひとつの生き方だな」と肯定的にとらえることができるようになりました。

以前は友達同士で街を歩いている同年代の子を見ると、「楽しそうだな」とうらやましく思ったことがあったのですが、予備校でできた仲間と街を歩いたり、旅行をしたり、キャンプに行ったりという体験を経て、自分のほうが楽しんでいるぞと思えるようになったんです。

―― 予備校のイベントとしてキャンプなどがあったんですか?

はい。たとえば自分たちで計画をして、青森のねぶた祭に参加する10日間の旅など、いろいろなイベントがありました。交通ルートを調べて、寝泊まりは公園などにテントを張って。普通の高校生にはできない、ここに来たからこそできる経験を得られたことで、自分の中にあった負い目が払拭された感じがしました。

と言っても、僕は「周りと同じことができない」というコンプレックスを、「絵が描ける」ということで埋めてきたため、その後も絵で生活できない状況に直面するたびに落ち込んできました。

―― 絵で評価されなければ意味がない、という感じですか。

漫画家として成功しなければ、生きている意味がないと考えていたんです。

大検予備校を卒業した後は、東京に出て漫画家を目指しながらアルバイト生活をするのですが、なかなかうまくいかず。1年で名古屋に戻り、美術系の大学に進学しましたが、そのときは学生生活に逃げたかったというのが本音でしたね。予備校の友人たちがみんな楽しそうに大学に通っているのを見聞きして、うらやましく思ったんです。

大学では、周りの人に自分は不登校だったという話をしても、最初は少し驚かれてもすぐにそんなことは関係なくコミュニケ—ションがとれて、不登校をネガティブにとらえていた気持ちはさらに消えていきました。クラブ活動もしましたし、漫画もたくさん描いて新人賞を頂く経験もできました。

―― 紆余曲折がありながらも、社会に出るまでの間にたくさんの場所でさまざまな人と出会ったことで、自己肯定感を少しずつ持つことができたわけですね。

『学校へ行けなかった僕と9人の友だち』(双葉社)より

「不登校だから何かしなきゃ」と焦らなくても大丈夫

―― 大学を24歳で卒業して社会に出てから、今に至るまでもさまざまなハードルがあったかと思いますが、お聞かせください。

出版社で挿絵を描いたり、映像制作会社でDVDのパッケージの絵を描いたりと、さまざまな仕事を経験しました。異業種交流会に片っ端から参加して、名刺と作品ファイルを配っていろいろな会社から少しずつ仕事をいただいたり。手元にある漫画もいろいろな出版社に送りました。ただ、漫画家として生活していくという夢はなかなかうまくいきませんでした。

―― 夢を諦めて、どこか会社に就職するという人も多いと思います。

僕も一度、就職活動はしたんです。テレビの美術制作の会社の面接を受けに行ったのですが、すぐに採用が決まってしまい、その帰り道に急に不安に襲われました。めちゃくちゃ忙しいと聞いていたので、「漫画が描けなくなっちゃう、どうしよう」と……。でもそのタイミングで、ある会社からイラストの依頼が来て、「やっぱりやめます」と入社は辞退してしまいました。

その後も、貯金をはたいてカナダに10日くらい旅行をして、「帰ってきたら就職しよう」と思ったこともあったのですが、帰国すると出版社から電話が入っていて、それが作品を雑誌に載せてくれるという連絡で。結局、就職する機会はありませんでした。

―― うまくいき始めたのはいつ頃のことだったんですか。

30歳くらいのときに、画材などが揃っていて漫画を描くこともできる漫画喫茶「漫画空間」という場所に通っていたんですが、お客さんがあまりにいないので心配になって、そこを舞台にした『まんくう』という作品を描いたんです。それを双葉社が雑誌に掲載してくれたのを機に、いろいろなメディアが取材に来るようになって。

その中のひとつにNHKのノンフィクション番組があり、漫画家を目指す僕の視点で、他のお客さんたちを紹介することに。そこで、僕が過去に不登校だったことも放送されたんです。

すると、当時やりとりしていた双葉社の編集者が番組を見ていて、「不登校だったときのことを描きませんか」と言われたんです。

―― それが『学校へ行けない僕と9人の先生』につながるんですね。

はい。最初は不登校のことを描いても誰が面白いと思うんだろう、と半信半疑でしたが、連作が決まって、単行本にもなって、思わぬ反響があって。

―― さまざまな縁が繋がって今があるわけですね。でも縁を繋げるにも、大変な努力が必要なのだと思います。

努力というよりも、自分から漫画をなくしたら何もなくなるという不安が大きかったと思います。周りから見たら努力に見えるのかもしれませんが……。

小さい頃から周囲と同じことができなかったけれど、漫画家を目指して頑張ってきたという自負があったので、形にならなければ意味がないと思っていたんです。鳥山明先生という日本を代表する漫画家にも作品を見てもらったのだから、自分も漫画家として活躍しなければつじつまが合わない、と。

それであれもこれも全部やってきたことが、知らず知らずに縁を繋ぐことになっていたのかもしれません。さらに不登校だったことも漫画に活かせて、10〜20代の頃にイメージしていた漫画家像とは違うけれど、今は壮大につじつまが合ったと思っています。

―― 不登校だったことにも、大きな意味があったということですね。

学校以外の出会いがたくさんあったから、今の人生を歩むことができたのだと思います。今は講演の仕事もいただき、これが自分の役割のひとつだと思って頑張っています。

―― 今、不登校を体験している子に、何かメッセージをいただけますか。

今思うのは、人との出会いも勉強も、何度でもチャンスは巡ってくるということです。不登校の間は、今しかできない機会を失っているような感覚になりますが、本当はいつからでも大丈夫なんです。だから、チャンスを失ったと焦るよりも、もし好きなことがあるなら、目一杯それに時間を注げばいいと思います。打ち込めるようなことがなくても、いろいろなことを試す時間があるのは不登校の強みです。

ただ、今は不登校というと「何か才能を伸ばして生きていこう」というプレッシャーが与えられるようにもなってきています。親も「何かを見つけてあげないと」と焦ったり。でも、打ち込めることがあるかないかと、学校に行っているか行っていないかは別問題です。

不登校だから代わりに何かしないと、と考えると苦しくなっていくばかりですよね。好きなことに打ち込んでいても失敗は絶対にありますし、正解のルートなんてどこにもありません。だから、焦らずにいろいろ試してほしいなと思います。大人になってから探してもいいですしね。

―― ありがとうございました。

<取材・文/大西桃子>

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この記事を書いたのは

大西桃子

ライター、編集者。出版社3社の勤務を経て2012年フリーに。月刊誌、夕刊紙、単行本などの編集・執筆を行う。本業の傍ら、低所得世帯の中学生を対象にした無料塾を2014年より運営。